2011年4月2日土曜日

レイダース 失われたゾンビ

@伝説の最低映画
@酷すぎて暴動が起こった(実話)

映画の内容云々以前にそのつまらなさに会場の客が続々と怒り初め。最終的には暴動に発展したという逸話があまりにも有名な作品。
(政治・宗教・人種等の問題を除いて純粋な糞さで暴動を引き起こした作品はおそらくこれだけだろう。

しかもその会場というのがファンタスティック映画祭。要するに変な映画を寄せ集め褒め称えるオタクの会合という地雷原で暴動が発生した。この点も特筆すべきである。

虚無の『死霊の盆踊り』、ストレスの『失われたゾンビ』と語られており、『死霊の盆踊り』が引き合いにされている映画であると考えていただければ分かりやすいか。
ストレスを与える映画といえば『ネオンマニアックス』も相当なものだが、本作の観客への攻撃は一つ頭飛び抜けて凄まじいものである。

『死霊の盆踊り』すらエド・ウッドの脚本クリズウェルのカンペ読みというマイナスのカリスマ劇が観客の前で繰り広げられる。これは快楽指数の高い瞬間だろう。

しかし本作は

冗長極まるシーンを
冗長極まる1カットで
ストーリーラインすらまともに存在していない中に
手抜きな上に下手くそな演出・編集で

フィルムに放りこまれている。ほとんど登場しない上にしないほうがマシなメイクのゾンビをトッピングして---

ストーリーラインに至っては「一貫性が無い」という表現すら不相応なレベルであり、評価のしようがない虚空の領域
この虚無の中に潜む全てが観客にストレスを与えてくる。これはもはや精神汚染である。

頑張ったけど抜きどころのないポルノの虚無感とは異なったストレス(精神汚染)を観客に容赦なく浴びせ続けるのだ。

徹頭徹尾駄作のあまり約3分に及ぶフルコーラスの手抜きOPが本編と野次られる点は、正に最低映画界の『デスクリムゾン』と形容するに容易い。
否、デスクリムゾンこそがゲーム界に転生した『失われたゾンビ』といえよう。変な銃が活躍するなど、もはやコレは呪いである。

実際、筆者ですら学園黙示録が日本で放映されるまで本作に匹敵するストレス指数の高い駄作を見たことがない。

しかも学園黙示録ですら、

・面白そうな一話
ただ小奇麗なだけの安定した作画
頭の悪いキャラクターのお色気
・某漫画家平野耕太とは認めないが名貸

等、客寄せになるポイントは持っているが残念ながら本作はそれすら持ち合わせていない。

最大の謎は本作がなぜお蔵入りにならなかったのかという一点である。
なにかの間違いで本作をビデオ配給したTCC(徳間コミュニケーション)曰く

「興奮のあまり観客がスクリーンのゾンビと戦い始めた!」らしい。

なお、原題はRAIDERS OF THE LIVING DEAD』であり邦題に関してはTCCに罪は無い。

*今回のレビュー、まったくやる気がない。というか学園黙示録の補足の為の記事である。個人的なストレス指数では本作を上回っている。
*ストーリーは他所を回ってくれ。死ぬほど疲れているんだ。

2011年3月2日水曜日

謝罪文

長きに渡り更新を滞らせていたデッドライジングの実況動画『ゾンビ対ヤクザ』の打ち切りを報告します。

一身上の都合で動画クオリティーが維持できず更新を停止していましたが、打ち切りの決心をつけて最後の収録を行いましたが、DVDデッキの故障により、肉屋戦~ゾンビ化ジェシーを惨殺という本来プレイした映像が収録できませんでした。(ファイナライズを終えた映像が1分で暗転してしまう。録画テストの段階では15秒程度の映像しか収録していませんでした。)
『デッドライジング』はゲームの性質上、やり直しが効かない為、1プレイでの撮り直しができません。

また本日に到るまで度々起こった更新の明らかな停滞ですが、動画を上げるたびに作品の出来不出来の判断が自分で解らなくなって怖くなってしまったというのが本音です。収録が苦痛となってしまったのです。

尚、引越し先の環境が実況がほぼ不可能となってしまいました。

恐らく実況動画の配信を行う事は二度と無いでしょう。

今後はMAD・映画の音声解説等を中心に更新していこうと思います。
(そして別アカウントでの著作権の状態が曖昧な映画作品のUP)

お怒りを買うことは重々承知の上ですが、謝罪の言葉で閉めさせていただきます。


ご期待にお答えできず申し訳ございません。

2011年1月1日土曜日

GOEMON

@忍者アクションとしては次第点
 @脚本は最低


キャシャーンから見えにくかったアクションシーンは大進歩した。しかしCGが進歩していないコレが『無双シリーズ』よりも前なら評価もかわったが、シンメトリー構図の多さは引き出しの少なさを露呈してしまった感は否めない
五右衛門の泥棒としての活躍は序盤にとどまっており(しかもそれが『カリオストロの城』にオマージュで終わっている)
基本、それなりの映画なのだが、アラが尖っている。面白さに尖った点はない。
私的に本作の失敗は終盤で登場人物全員がアホになってまう点が大きい。
・才蔵の家族が襲撃させると何故か予測していない五右衛門(石田三成が序盤で耳に入ってる。)
・立身出世が目的でいたにも関わらず死ぬ間際に世界平和を唱える才蔵。




他にも色々とあるが、 最終決戦手前の盛り上がりとも言うべき場所でのこの失敗は本作の評価を大幅に下げざるを得ない。というか、才蔵の演説よりも、その後に赤子を釜に放り投げる秀吉の方が圧倒的にインパクトがあった。演説の内容なぞみんな忘れる。
紀里谷和明監督は、素直に高いポテンシャルを持ってる“天才”に部類する監督だと思う。しかし登場人物が唱う世界平和だが、登場人物たちが戦う戦場ではどんな派手な戦闘シーン・流血シーンにも暴力的感情が込められていない。主人公が常に反体制側であるにも関わらず反体制を貫く“野蛮”なエネルギーに欠けている。

これらは彼の坊ちゃん気質に起因するものであると断言する。温室育ちで、映画撮らなくても食っていける。(彼の出身を鏡見れば革命家にでも成れば良かったのに)

本作でお尋ね者のアナーキストの筈の五右衛門が鳥の肉を食うシーンで、鳥の骨までしゃぶる事は無く、柔らかくて美味しそうな部分だけ食べて「ごちそうさん」という。
坊ちゃん監督の性格的な甘さがよく出ていたシーンだと私は断言する。

私が前期の作品の平和論が頭が悪いと評したのはそういう事ではない
徳川家康に天下の太平を約束させた五右衛門などは、キャシャーンの無意味かつ意味不明なバッドエンドからは随分飛躍できたと思う。しかし、途中から付いてきた子役は完全に蛇足な上に、支離滅裂な五右衛門の説教でその必要性は皆無だったりと、性善説を描こうとした結果登場人物が白痴化するという前例多々ある最低要素の一本。『モスラ3』の白亜紀編と同じでやらないほうが出来がよいのだ。


というか、本作の一番の見所はCGも何も使っていない、 平 幹二朗が人肉料理にされるシーンである。このシーンだけで「この映画見てよかった。」と思わせてくれるのだから紀里谷さんはもっと野蛮になるべき。

十三人の刺客(2010)

@名作
@『新・仁義の墓場』と同じぐらい名作で同じぐらい奇跡のPG-12




『十三人の刺客』というよりも『武士道戦国志』か『大笑い、十三人の、馬鹿騒ぎ』のほうが十兆倍しっくり来る作品。


敵味方含めて登場人物全員が各々のベクトルで常軌を逸しており、シグルイな価値観でのみこの異常極まりない超弩級残酷絵巻に参加している。 


仇役、松平の殿様からして既に凄い、鬼畜も鬼畜、CAVE語で言う鬼畜の領域であり『カムイ伝』の殿様と『武士道残酷物語』の殿様と『バイオレンスジャック』の殿様の全部盛りなのだ。気色悪さでは『ギニーピッグ2』の殿様の鱗片さえ見える。実際に映画を見れば小生の例えが恐ろしいほど正確である事が解る。
これを演じるのが稲垣吾郎といのもものすごい。本当に温室育ちのお殿様のイメージそのままで野蛮な悪党全部盛りなのだ。吾郎さんのいつものナルシストなオーラも相まって、立ってるだけで、不動のままで怖いとんでもない悪党が誕生してしまった。

13人の善いもんの鬼畜の親玉、役所広司はそいつの所業を目の当たりにして笑う、どん引きというよりも武者震いに近い。チープな狂笑というよりも、こみ上げる感情がなせる笑い。この導入部だけでこの映画は100点である。
で終盤の13人VS300人だが「13人が30人づつ殺れば楽勝じゃん?」と思う人も居るだろう。

『あずみと』は訳が違った、切っても切っても13人を圧殺する敵勢の圧倒的な数の脅威を描ききっている。地獄のような光景だ、13人の一人が息絶える直前に見る、敵味方が殺し殺される場面に顕著だと言える。

その末路に至るまでジャニーズ的には吾郎さんを出したのを後悔しただろうが、血だるまになりながら、鬼畜と化して「みなごろし」をやってのけたキャスト、描き抜いた三池組百点万点の武士道残酷物語ならぬ武士道鬼畜大宴会であった。

2010年10月20日水曜日

エクスペンダブルズ

@超快作

『ランボー/最後の戦場』を彷彿とさせる血飛沫が多数見受けられるが想像以上に牧歌的というか旧態然なアクション映画に仕上がっている。否、堅実というべきか。ともあれ圧倒的な豪華キャストを惜しみなく、ふんだんに映画に参加させている。80年代~90年代を代表するアクションスター揃い踏みのメモリアル作品にして出来過ぎと評すべきだろう。いや、むしろそのコンセプトとしては80年代のアクション映画のスタイルに忠実である事がミソなのだ。

豪華キャストといえど、メインを絞ればスタローン、ジェット・リー、ジェイソン・ステイサムの3人となる。しかし脇を固めるキャストも彼らも志は同じにみえた、これまでどおり全力で役に望んでいる。それも変に意気込んだ演技力などではなく彼らが個々に持っている俳優力をもってしてだ。どんな役をやろうとスタローンはスタローンであり、ジェット・リーはジェット・リーなのだそれが観客の見たい全てなのだからだ。

脚本やら詩的な演出は端から期待していないし概ね凡庸だった(不覚にもスライとミッキー・ロークの語らいにはジ~ンと来たが)が、そこもこの映画のミソだ。随所に挿入されるアクションシーンに趣を置いて映画の尺は90分を保っている。王道の90分を貫いているのだ。 これはむしろ評価すべきである。

この映画の唯一の問題は、シルベスタ・スタローン以下、どいつもこいつも滅茶苦茶強そうにも関わらず、敵勢力があまりにも力不足であるといわざるを得ない。『コマンドー』におけるベネットに相当する身体的な攻撃力の差を覆すような敵が明らかに必要だった。
黒幕と言えば、『ダークナイト』でトゥーフェイスにあっさり殺されたエリック・ロバーツ。 
弱い。 
終盤では『タイムクライシス』のワイルド・ドッグを彷彿とさせる、計画破綻→ヒロイン連れて高飛びという負けフラグ全開でエクスペンダブルズに挑むが、自爆する事もなく死ぬ。弱い。


離叛したドルフ・ラングレンがエリック派に着いている時点ではいよいよ厄介な相手に思えるのだが、ドルフとジェット・リーの夢の対決(少なくともドルフのファンにとっては)が実現した後、退場してしまう(どっちが勝ったのかは映画を見てね。)

そういう意味では私的にはドルフ・ラングレンが一番、役得だったようにも思える。ジョークが通じるいつも(B級アクション映画)のドルフも、クレイジーで野蛮な悪党ドルフにも見せ場があったし、この映画に強敵を求めていた観客は誰も彼の退場を惜しんでいたに違いない。

2010年10月6日水曜日

学園黙示録ハイスクール・オブ・ザ・デッド

@擁護不可能のゴミ
@制作関係者に不幸が起これば本編よりも楽しめる自信がある


00年代の“萌”史上主義が日本のアニメを如何に衰退させ事を象徴するような駄作。

10年に一度の駄作は恐らく『コードギアス反逆のルルーシュR2』で決まりかと思われた矢先原作が登場し、筆者を激怒させるという偉業を達成。
ギアスは一期の成功を完全に破壊したというのが大きいが、コレは徹頭徹尾駄目。

原作に忠実であるにも関わらず駄目。要するに原作からして観賞に耐えられない駄作なので平行してレビューしようと思うのだが、擁護不可能とあるように全編を構成する最低要素の尽くを私の力量で列挙できるかいささか不安である。

本作はゾンビ作品の造詣に詳しい者ほど楽しめないという非常に珍しい傾向を持っている。端からゾンビ映画のファンを商売の相手と見ていないゾンビアニメなのである。

例えばタイトルに学園黙示録とあるがゾンビ映画の基本である篭城を日本の高校で再現することは無い。原作一巻の後半に入った時点で学園から脱出してしまう。
あまりに短かった為、原作に至ってはコミックが進むにつれてオマケという形で学園にゾンビが発生した顛末を補完している。
そしてアニメにおいてはそのシークエンスを全て第一話に再編成される始末である。

これを私が脱構築と褒められないのは、追加シーンを含めて主人公たちが他のゾンビ作品の主人公達よりも優れた脱出計画を立てたとか脱出の努力を行ったのではなく、淡々とさも当たり前のように脱出に成功しているのである。工夫というものが一切合切感じられない。

ゾンビに至っては視覚を失って聴覚で反応しているという設定がある。恐らく元ネタは『バイオハザード2』のリッカーであろうが、そもそもリッカーはあのグロテスクな容貌に、第一作におけるハンターに近い立ち位置である。ゾンビよりも強いが故に目が見えないというハンデを与えられているのだ。これはドラキュラにニンニクや十字架という弱点があるような妥当な設定だ。しかし、本作ではゾンビが視界を奪われた暗闇で有利という描写すら無くただただ他作品と比較して脆弱な個体となっている。
まあ、高校生=ガキが相手にする上に、銃の無い日本が舞台なんだから必要な設定だろうと思っていると、主人公たちは日本では有り得ない事に簡単に重火器を入手してしまうのである。

この時点で本作は、主に米国で生産されるゾンビ映画を、日本を舞台に置き換えた際にシュミレーションすべきである銃規制という環境下でのゾンビとの戦いを完全に放棄している。しばしばコメディーと評される『ショーン・オブ・ザ・デッド』でさえこの考察に踏み込んでいた。

その経緯があまりにもお粗末も良い所で、運良くゾンビになっていない警官の遺体から、拳銃を手に入れるまでは良いとしても、主人公らに同伴する保険医の友人が警察の特殊部隊で、マンションの一室に馬鹿みたいにデカいライフルやら散弾銃を弾と一緒に3丁も置いており、それを無断に拝借する。果てには右翼団体の庇護受けるなど、日本において深刻な火力不足という事態に一介の高校生が全く陥らないのである。

この緊張感の無さに拍車をかけているのが“萌え”を重用した陳腐以下のキャラクター群像である。

この作品のメインキャラクターは主人公以外に男が居ない。もう一人、居ることは居るのだがデブのガンマニアというモテ無い街道まっしぐらのオタク君(モデルは平野耕太らしいが俺は認めない)。それ以外は全員女性という緊張感0のパーティー。

特に主人公らの同伴者である保険医だが、街中にゾンビが居るという非常自体であるにもかかわらず、彼を守る大人という認識というものがなく、酔っ払て主人公に欲情し甘えたり、ブランド物服を破られて怒るなどといった、手のかかるお姉さんというキャラクターが全面的に押し出されており大人不在という最低系ラブコメから引用されたような人物である。

続いて剣道部の毒島ついてはただただ不愉快でしかない。
マンガとしか形容できない武家口調の彼女を大和撫子キャラとして萌えの対象と捉えているファンが居るが、下賎であることもはなはだしいというもの。初登場時に噛まれた生徒を生きてる内に撲殺するというインパクトは評価するものの、その後は服が濡れれば、裸エプロンにTバックで主人公の前に堂々と現れたりゾンビを殺せば「濡れる!」とサディストの色情狂にしか見えない。特にゾンビや暴漢を相手に立ち回って性的興奮をするなどとは本作に限らず性的サディズムと敵への加虐欲を一緒くたにした底の浅いキャラクターの典型ともいえる。その後も和服を着たりるなど形式ばった大和撫子を作り手は演出するのだが、やるだけキャラクターが浅さが露呈されるだけ。黒髪美少女が刀振り回してゾンビを狩り殺す事に文句言いたいのでは無いが毒島はただのテンプレートの寄せ集め。虚数の塊だ。

第8話におけるようやくピンチといえるピンチに陥る描写もひどい物で、ハマーみたいな大型車両に主人公一味はほぼ無傷で乗っているのだけれど、放置されたゾンビ用のバリケードに行く手を遮られるのだけれど、このバリケードがDVDで修正されるんじゃないだろうかってぐらいのスッカスカのワイヤーで作られている。ほんと、大人2、3人一変に通れるぐらい。

後ろからゾンビがやってきてみんな戦い始める。この戦い方もヒデーの。JKの巨乳を三脚代わりにライフルぶっ放すわ、その銃弾を追ってカメラがが上記の侍(笑)ガールの股間の間を通り抜けて食い込みパンツのドアップ。続く2発目は、侍ガールの揺れる乳と乳の間を間一髪ですり抜けちゃうの。

金網がスカスカなのはこんなくだらないシーンに時間をかけて作画スタッフが手を抜いたのかよ?

かくもゾンビの頭がパーンとか、仲間がゾンビに食われるとかいうゾンビ作品の醍醐味は起こらないまま。侍ガールと主人公は、散々乳やらパンツやら晒した挙句、余裕綽々とゾンビの群れを素の足で突破する・・・

つーかさー、こいつら重火器持ち歩いてるのにスッカスカのワイヤーを切れるようなペンチすら用意してないのかよ!
例えばゾンビに追い詰められたシーンで「そうだ!金網を切れ!早く!車載工具使え!」って流れになって、仲間たちが撃っても撃ってもやってくるゾンビの中で車載工具にあったバールで無理矢理に金網をねじ切っていって、人ひとりギリギリで通れる穴を空けて金網を突破。主人公らは難を逃れるが仲間の一人が・・・って流れならハラハラしておもろいんとちゃうん?

ていうかデブ(平野耕太とは認めない)は、武器の知識満載の癖にレザーマンの十徳プライヤーぐらい携帯しといてよ!男のロマンは銃撃戦<<ワイヤー切って要塞潜入といえばミリオタの義務じゃろがい!(ゴリエ風に)

このように浅い知識でゾンビを射撃の的程度にしか認識していない、世のゾンビマニア達には腹立たしい内容なのである。
たしかに『バイオハザード』はゾンビ虐殺ゲームという評価もあって、射撃の的ではあるんだけど、あれはまだ「ゾンビと戦える」という発想の黎明期のものだし、後年の『デッドライジング』もゾンビ虐殺ゲームには違い無いし、終盤フランクが強すぎたり、銃の優位性が皆無等は私的に評価を落とさざる得ない。
だが、これらは『ゲーム』であってクリボーにまでキャラクターは要求されない、それどころか両ゲームのゾンビはちゃんと作品のアイコンとして機能している上に、プレイヤーの攻撃によって倒されるその瞬間、血と肉の華と開花する時、確実に主人公よりも輝いて描かれている実質主役と言ってもいい。そもそも両者は倒しても倒しても現れる恐怖をしっかりと描いているし、ゲームオーバーも有り得る。

しかしアニメでそれをやるのはどうなんだ?本当に没個性な射撃の的だもん。強力な個体や以上に目に付くファッションのゾンビなんていやしない。主人公らの攻撃力が衰える事は無く(ハーブを食う代わりに精々JKが風呂入る程度)せっかくゾンビがえげつない死に方する時でさえ主人公やヒロインのほうが輝いて描かれている。同じことは『実写版バイオハザード』にも言えるが、本作は一つ頭飛び抜けて酷い。『実写版バイオ』は一応ヒロインアクションとしてはしっかりと作られている上に、スプラッターシーンにも趣を置いている。

本作は例えるならば、自分の考えたゲームの内容をベラベラと喋り始めた挙句に「ここで裏技が使える」と悦に浸って妄想を垂れ流されたようなものだ。しかも20分x12話=240分延々と。

しかし、本作。コレだけでアキバ系のお兄ちゃんの人気になったのではない。全編に頻繁に挿入されるネトウヨ的な未熟な政治的見識を全肯定するシーケンスの数々。

例えば、主人公らが武器を手に入れたマンションから見える橋にバリケードが築かれているんだけどそこに「彼らはゾンビではない!米軍が開発した殺人病ウイルスの犠牲者なのだ!」という世にもぞんざいな反米左派が橋に大挙その凶行によりバリケードが崩れゾンビと人々が橋の上で入り乱れて、人間屠殺場と化すホラー描写に転換される・・・・・・事は無く、警官が左翼を射殺して事態を収拾させる。

あのー?パニックは?地獄絵図は? 

ていうか、こういう時に大挙するのってプラカードもった学生運動残党じゃなくて子供を抱えた親とか怪我したり噛まれた人かその親族や友人だよね? いや、いないことはないのよ。左翼に対して絶対数が有り得ないぐらい少ないの。むしろ彼らは警察に従順に描かれて、左翼が邪魔をして死んだって展開。

なんつーか、警察という国家権力がネトウヨの嫌いな物を否定するのをやりたかっただけじゃないの?
普通のゾンビ作品はゾンビにこういう役を譲る。ゾンビが左翼の内蔵を掻き分けて残虐な処刑を加えるのだ。観客が見たいものはソレの筈だからだ。
しかし、アニオタの間で増えるネトウヨ層はゾンビよりも国家権力が左翼を殺すのを望んでいるのね。
他にも『狂い咲きサンダーロード』のスーパー右翼みたいな連中が市民を守っているんだけど、ゾンビ化した同胞をオリに入れて要塞で「自己犠牲」や「愛国」などの綺麗事を並べて、保護している市民の前で処刑する。彼らの意思・肉体の強さやカッコよさを前面に押し出しているのだが……ごめんなさい。わざわざゾンビを要塞に連れ込む時点で、保護されている身分でも市民は「キチガイだぁ」って思っちゃうよ。綺麗事まで並べられたら尚更。
あげく原作では彼らを思想派右翼として三島由紀夫を引き合いにしているのだがそれでいいのか!自衛隊のお偉方を人質にして自衛隊員に「クーデターしようぜ!」っていうような人だよ?映画『MISHIMA』劇中でもあのへんの件は、思想派右翼としてではなく、劣等感とコンプレックスの暴挙として描かれてたんだが。

少なくとも「ここのお館様はキチガイだが、ゾンビに対抗できる武力を持ってるから従っておこう」「あのキチガイをどうにかして縄で包んしまって、自分たちでこの屋敷を乗取ってしまおう」という打算的な見解が人によってぞろぞろ出てくるハズだ。しかし、このアニメには彼らのような小市民的考えの大人は登場しない。右翼の屋敷に保護された大人たちは全員日教組的な左翼思想の持ち主で、「彼らはゾンビではない!米軍が開発した殺人病ウイルスの犠牲者なのだ!」と言い放つような愛国心とやらを忘れた人間しか居ないのだ。

別に右翼がどーの左翼がどーの俺が言いたい訳では無い。というかこんなアニメを引き合いに言ったら馬鹿だと思われることぐらい解ってる。上記の通りで、回りの見えなくなっている災害被害者や、打算的な見解がきる大人の存在を無いことにして進行する右左の二極論で物語が成り立ってしまう事が極めて不自然であるといいたいのだ。ゾンビという災害、パニックを描くストーリーで登場人物を2人しか出さないようなものではないか。

他にもペ・ヨンジュンをゾンビ化させて射殺したりしている。まあ、イ・ビョンホンだとゾンビ相手に大立ち回りをやらかして「コーブラー!!」(ジ~アイジョ~♪)とかやるからヨンジュンなんだろうけど、ヨンジュンもコムド(韓国の剣道流派)・合気道を収めているので、剣道部の女子高生が活躍できる世界ならそこそこ戦える筈だと思うんだけどね。

あと冒頭やENDロールに入る各国の危機的状況の描写が本編の内容と比較して極めてアンバランスに思える。っていうか駄作の定番である無意味な設定の描写だ。

なお、本作はそれなりにヒットしてしまい、第2期の制作が決定している。

・・・ごめんなさい。もっと言いたい事があるんだけどもう悲しくなってレビューできない。

兎に角かような駄作にもファンが付き、スポンサーが歓迎する日本アニメの現状はもはや世界一のアニメ大国などとは言えないに陥っていると断言できる。誰だよ、アニメの殿堂作れとかいったバカは。)

確かに深夜アニメとはいえ、こういう題材が表に出てきたのは評価すべきかもしれない。しかし、逆に言えば“萌コンテンツ”に乗る為には題材を選ばないというスポンサーの底の浅さが露呈した。テレビドラマと変わらないよ。

俺はアニメの娼婦を見たいんじゃない!ゾンビが見たいんだよ!もっと言えば美少女フィギュアなんざ買わねーからゾンビのフィギュア売れ!スポンサー!

と、いうわけで紛いなりにも面白い和製ゾンビアニメのアイデアを箇条書きして本作への溜飲を下げる事にする。

・OPはディルアングレイがものすごいゲロ声で最高のバラードを送ってくれる。ライブでは『残』並に何言ってる解らなくなる。
・主人公は派遣労働者。相棒は土方。
・ヒロインに豊齢線アリ。
・幼女の首を絞めてレイプするキモオタとが出てくる
・ゾンビのリボルテックとかフィギュアがモリモリ販売される。
・ゾンビのデザインはフルチ作品を参考にしておりウジやらゴカイやらの作画が糞リアル
・ゾンビは731部隊が開発した細菌兵器が原因。
・その封印を解いたのが赤ィなんたらっていうテロリスト。目的は帝国主義のネガキャンの為という回りくどさ
・過激派のボスは部下に黙って強盗計画を並行させていて、この騒動で退職金代わりに頂戴しようと目論んでいる。最後に「この金は俺のもんだ!ゾンビのケツを拭く紙になんざさせねぇ!」とかのたまって死ぬの。
・分身の術紛いの高速で移動しながら火の玉ばらまくアホみたいに強い個体が最終鬼畜兵器的に登場する。
・テロリストは復活させたその個体が皆殺しにする「ワタシハ ダレノ メイレモ ウケナイ タダ ハカイ スルノミ」
・なんか高圧ガス的な圧力が加えられた鉄パイプ的なナニに貫かれて、やたら強いっていうか1コインクリアさせる気が無い個体は死ぬ。

平野耕太先生。こっちのほうが面白そうでしょう?

2010年9月12日日曜日

モスラ3 キングギドラ来襲

@駄作
@っていうか、なぜこれを興行しようと思えた?

現在に至って平成『モスラ』シリーズは特撮ファンから無視されている。原因はその特殊効果の酷さにある。

『ゴジラVSデストロイア』でゴジラを休業させた東宝だったが、来年の正月に何を興行するのかと思いきや節操無く『モスラ』を発表。だれもが1961の大作『モスラ』のリメイクかその続編を想起させる予告編だったが、翌年、劇場に足を運べば、これがテッケレツのパァ(最低映画館風に)

おそらく平成ゴジラシリーズの半分かそれ以下の予算で制作されており、内容は子供向けにシフトチェンジ。
この「子供向け」というのが、昭和ゴジラの低迷の反省を全く活かしておらず、ただただ押し付けがましい教訓話を強引に引き合いにしながら続く、ショーモないホームドラマと、敵かモスラのいずれかが有利で面白みの無い戦いが続く。
「世代交代を明確に示す新・モスラ誕生」という本作の見せどころ流れに到るまでの全てが酷過ぎる。

翌年には、『モスラ2』を発表、大怪獣ガルーダよりも硫酸で漁師を焼き殺すヒトデの方がよっぽど怖いという本末転倒。

二作が子供に訴える「環境問題」については、子供に教えるというよりは、問題の解決を子供の将来に押し付けているようにさえ思える。

そしてトチ狂った東宝が最後に仕掛けたのがこの『モスラ3』である。
もはや内容はモスラでも子供向けでもない、『ゴッドマン』に近い。

3人の小美人の属性が『ゼルダの伝説』のトライフォースを盗用するに始まる。しかも本編に一切絡まない不要な設定。(当方の駄作評にて定着してきたが、糞映画の第一条件なんです。無意味な設定は)

続けて「嫌いな物を食べるのは自分に嘘を付いたことになる!」という小役の訴え。
しかもコレを黙々と聞き入れる父親が大仁田厚。とりあえずそんなガキ殴っとけよ!

で、我らがキングギドラ尊が上空を飛んで市街地をモリモリ破壊。ここはまあ面白い(約3分ちょっとカップラーメン作るときもこれで退屈しないね!)

しかし、キングギドラ尊の目的がセコ過ぎる。幼児誘拐だもん。
『学校の怪談』シリーズの妖怪と同じノリ。っていうかアレよりも特殊効果が酷い。子供がペラペラの紙みたいになってノイズが走って、ギドラ尊の富士樹海基地にワープする。あまりにも安っぽいぞこの特殊効果。小美人の一人がこの模様を「二億年も生きていたらこんな能力が身につくのか!」の一言で説明してしまうが全然意味がわからない。

小美人の珍プレーは他にもある、主人公に対面して、

小美人「お名前は」
「園田」
小美人「園田なにさん?」
「園田翔太」

迷子センターかよ!

この後も、子供たちを探して洞窟でさ迷う大仁田(以後、劇中で一切活躍はない)や、第一ラウンドでキングギドラに圧倒されたモスラに、園田翔太君が「がんばれ!」と声を賭けられると「キューン!キュワーン!」と相槌をを打つ律儀なモスラなど、ツッコミには事欠かない。

まあ、この辺はむしろ笑えるので許すが、本作は前記の通り特撮効果の酷さ故に、特撮ファンから無視されている。

その真骨頂たるが、タイムスリップして若い頃のキングギドラを殺そうってパート。
 (『ゴジラVSキングギドラ』の頃に同じく、タイムパラドックスの考察は一切なされていない。キングギドラが恐竜を滅ぼしたという設定なのだが、キングギドラ倒したら恐竜が滅ばないので、未来が変わって人類栄へんやろが!)


ここ、恐竜も勿論出てきますが、新しい着ぐるみを作る予算なんざありません。挙句にCG技術を持っていないので、ミニチュアで再現しておるのですが、ほんと、油粘土かなんかで作られたとしか思えない悲惨な造詣(夏休みの工作みたいな)で、見ているこっちは発狂しそうになりました。恐竜も恐竜なら、セットもセットで、てんで駄目。トイレのタンクの上蛇口に石敷いてそこにひっつける椰子の木のオモチャみたいなのがアホみたいに植えられてる。

以上の やる気無い特撮を散々見せられた後に、キングギドラとモスラの第二ラウンドに突入すが、駆け引きや、怪獣プロレスの要素は一切なく、キングギドラにまったく見せ場の無いままに装甲化したモスラの圧勝で映画は終わる。

なお、本作のキングギドラとモスラの戦いは全て、富士の樹海で行われている。なにも破壊される対象もなく、盛り上がりのバトルは東宝特撮の醍醐味というものを一切体現できていない。

そんな平成モスラシリーズでも褒められる所はある、悪者の小美人ベルベラと、進化するモスラだ。前者は老け顔だが後年のゴスロリ萌を先駆けてるし、進化するモスラは紛いなりにも子供向けというコンセプトを生かした唯一の良設定だ(ポケモンのパクリでもな!)

しかし、ソレに付けても酷い。
本作を擁護する似非特撮ファン曰く、「低予算の割に頑張った」「子供向けのエンターテイメント」

だアホ。

低予算の割に頑張るって言うのは、愚にもつかないタイムスリップに恐竜の模型を映さないようにする為に、そこを省略できて初めて頑張ると言えるのだ。
そもそも平成ガメラシリーズの予算は5億円と、こちらも平成ゴジラシリーズの半分以下の予算なのだ。そいつと比べて本作はどうだ?お粗末すぎる。

彼らは云う、「平成ガメラは"子供向け"ではない。」と、私は当時、子供の時分に劇場で本作を見たはずだったのだが、100円でビデオ漁るまで本作の存在を忘れている。一方で平成ガメラ燦然と記憶の中に輝いている。故に本作は「子供向け」どころか「子供に忘れられる」映画になっている。面白くないからだ。

東宝が上記のような自称特ファンの支えがあると勘違いしてる以上。日本の特撮の未来はいくらガメラが頑張っても暗い。